top of page

『秩父路そぞろある記』ー秩父夜祭裏話⑥

更新日:2022年10月19日

 秩父音頭には「♪お~らがほ~じゃ こ~だよ ♪おっかしけりゃ おわらいな」という合いの手が入ります。これは「私の所(秩父)では このようにやります おかしいと思うなら 笑ってください(どんなことを言われても意に介しません)」という意味です。この言葉は、秩父人(?)の気質「素朴・誠実・温和」な中に「激しい気質・行動力」があることを上手く表現していると思います。

 江戸中期、幕府は今でいうところの財政改革のため、国中に「祭礼禁止」を命じました。「祭りなどに金を使わず、質素倹約しっかり働け」というわけです。これに対し、屋台を持つ6つの町(中近・下郷・宮地・上町・中町・本町)の人々は猛反発しました。”爆発”寸前のところで妥協案として規模を縮小し、6町が3町ずつ交代で行うことで決着しました。6町総祭礼が復活したのは明治になってからのことです。

 さらに、江戸後期には幕府から焼失した江戸城を復旧するため、秩父神社「柞(ははそ)の杜」のご神木90本を差し出せと命じられました。これに怒った6町の人々は普請奉行(工事責任者)がいる小田原城まで押しかけて”猛陳情(?)”し、この命令を撤回させました。このような秩父人の気質は、1884年(明治17年)に「秩父事件」となって歴史に名を記すこととなります。

 現代ではどうでしょうか? 秩父夜祭は曜日に関係なく「12月3日」と日にち指定で行われます。全国的には「8月の第2日曜日」などと曜日を決めて行われる祭りが多い中で異例の存在です。そのわけは、後者が多分に観光を意識したところから決められているのに対し、秩父夜祭は「祭りの意義」をかたくなに守っているからなのです。

 少々話しが変わりますが、夜祭の主催はどこだと思いますか? 実は、神事は秩父神社ですが、屋台引き回しは6町が主催で、花火はそれ以外の11町(日野田・野坂・熊木・宮側・番場・東町・上野町・道生・桜木・相生・別所)が主催しているのです。秩父観光協会は共催として物産展や広報活動など周辺行事を担うだけです。観光を目的とする側は開催日を「12月の第1日曜日」などと曜日指定にしたいのでしょうが、主催する「町」はガンとして首をたてに振りません。400年以上秩父夜祭を、祭礼の意義を、自分たちの手で守り続けてきたという自負があるからです。まさに、「♪おらがほうじゃ こうだよ ♪おっかしけりゃ おわらいな」の気質の表れではないでしょうか。

 秩父は、夜祭が終わるとそれを持っていたかのように写真のような景色に変わります。



閲覧数:19回0件のコメント

最新記事

すべて表示

Comments


bottom of page